40周年に寄せて

現役職員より 副部長・副技師長・主任技師

山口 雅人 Masato Yamaguchi

「現役の一言」

この度は神戸大学医学部附属病院放射線部設置40周年記念にあたり、まずは謹んでお慶び申し上げます。またこれまで放射線部に関係された多くの方々のご尽力に敬服するとともに、心より感謝申し上げます。
私は今年で放射線科医として15年目を迎えようとしていますが、振り返ればその半分を大学病院にて過ごしてきました。関連病院での研修の後、大学院生として勤務を開始したのは2002年6月からで、途中3年間神戸赤十字病院・兵庫県災害医療センターでの勤務を経て、2007年から再度教官として奉職しています。放射線部との縁が始まってちょうど10年となりましたが、その間、血管造影・IVRを専門としている関係上、特に現神戸赤十字病院技師長の古東さんや、アンギオ部門責任者の甲山さん、吉井さんとの交流が深くありました。最近では、緊急症例や手術室を含めたIVR手技の増加に対しても親切にサポートして頂いており、また機器更新・新規購入などで働きやすい環境整備に尽力して頂いて、感謝の念が絶えません。また以前に比べると看護師さんが充実して配属され、若い女性技師さんも増えて、随分華やかな職場になったなあと感慨深く思っております。
私自身はこの4月より放射線部副部長を拝命しました。今後は専門分野だけでなく、放射線部全体に目配りをして、更なる改善に取り組んで病院の質の向上に貢献していきたいと思っています。まだ若輩にて至らぬ点も多いと思いますが、引き続き皆様のご協力を頂ければと存じます。

西 政美 Masami Nishi

「昭和の古き良き時代の放射線部を思う」

昭和49年に入職し、現技師長に至るまで5名の技師長のもとで勤務し35年がたった。振り返ると、その時代時代にあった個性の強い技師長の 指導の下、放射線技師として自分なりの価値観を大切にしながら働いた。近年、社会のデジタル化の到来に伴い、撮影技術や画像のクオリティも高まり、また、人々はより質の高い医療や安全性を求める世の中となった。新人の頃は、患者の医療ニーズの厳しさはなく「お任せします」の 時代であり、のどかな撮影風景であったと思う。
そんな中で最大の出来事は、「阪神淡路の大震災」である。震災後の 病院の混乱は、野戦病院状態を呈し、規律も何もなく「この目の前の困難を なんとかせんと!」で、放射線部が一丸となって取り組んだ。病院全体が一致団結して、押し寄せてくる患者の治療にあたった。
今回の東北大震災は、あの当時を思い出しながら被災された方々のご苦労を痛切に感じる。
放射線技師としての経験を振り返ると、高エネルギー棟が新設され、放射線治療が開始された頃が思い出される。患者の治療は、繰り返されるため、患者への接遇や医師との協働の治療となり、他部門との関わりなど奥深いものがある。治療が終了し、患者の笑顔と安堵感は医療者にとっても得難いものである。しかし、自分は、一般撮影こそ放射線技師として最も興味深いものと思っている。一般的に地味な部署であるが、個人の撮影テクニックによって画像の精密さにつながり、効果的な診断となる。確実な診断につながる画像こそが放射線技師の腕の見せ所である。
平成12年から副技師長を拝命し、中間管理者としての役割を担った。一番大事にしていることは、スタッフと上司とのパイプ役であると考えている。最近の傾向は、人間そのものが、せちがらくなり人に対しても、仕事に対してもゆとりがないと感じる。社会の流れについていけない自分を感じながら、のどかで人間臭さのあった昭和の時代がなつかしい。あと1年で定年を迎えるが、のんびりと釣り三昧の生活・漁師になるのが夢である。

岡山 貴宣 Takanobu Okayama

「絆」

平成23年3月11日14時46分18秒宮城県沖で日本の観測史上最大の規模であるマグニチュード9.0の巨大地震が発生した。この地震による巨大津波の影響で東北および関東地方に壊滅的な被害をもたらし、福島第1原発事故も加わってその被害も甚大であった。自衛隊は10万人態勢で復興支援を行っており、アメリカから「トモダチ作戦」と呼ばれた支援作戦に1万8千人を超える将兵が参加している。
神戸大学医学部附属病院放射線部も今回の東日本大震災に対し、DMAT・医療支援・放射線測定支援として多数の人員を派遣した。派遣で東北に行ったもの・その派遣の間大学で業務を遂行したものなど、技師室全員体制のもと災害支援に協力できたことは非常に誇らしく思う。
今年2011年を表す漢字は「絆」と発表され、清水寺の森清範貫主が特大の和紙に書き上げた。たしかにこの「絆」の文字は、復興を願うわれわれの希望の言葉とも思え、非常に心に浸透するものである。
放射線部40周年を迎えるにあたって今思えることは、昔と違って現在は非常に業務量が増え過ぎていると感じる。私が放射線部に入った頃(昭和57年)は、16時には日常業務はほとんど終了しており、17時まで体を休めてから研究・実験・遊び(麻雀)に時間を費やし、先輩・後輩との絆を深めることができた印象がある。 しかし今では日常業務が終わるのが19時を過ぎ、体はヘトヘト、ましてや業務が細分化されており他部署との接点もない日常。このままでいいのだろうか?と自問自答を繰り返す。
今後、放射線部技師室として何が必要なのか?何が重要なのか?を常に考え後輩に引き継いでいく事が自分の役目であると感じている。それができたのか?正解だったのか?は60周年記念誌に掲載されるのであろう! 

村上 徹 Toru Murakami

祝創立40周年 −諸先輩方に感謝—

神戸大学病院放射線部が創立40周年を迎えられたことを心よりお慶びするとともに記念誌に出筆出来ることをうれしく思います。これは、本当に諸先輩方の努力があってこそ今の放射線部の輝かしい実績と活動があると思います。
 私は、昭和54年に放射線部(当時は、中央放射線部)に入職して技師歴は、33年になりました。厳しい諸先輩方の指導の基、様々な事を教えていただきました。本当に感謝しています。その間、放射線業務も周知のごとく大きく変わり、以前に増して収益を強く意識しながら日々の業務を行っていかなければならない時代になっています。
 また、我々が日々使用している放射線機器の運用は、原価償却費と収益率を考慮した業務量として稼働率(検査件数)が求められ、放射線技師の能率への関心とその運営管理に対する意識向上が求められています。その為にも、技師のマンパワーの充実と地位の向上を図ることが大切です。また、個々の技師の向上心が非常に重要と思われます。
 近年、放射線部に入職されている技師は、非常に高学歴で学生の頃から多くの研究活動を実践し、海外での発表もこなしており、尊敬します。彼らは、すでに高い向上心が備わっており、放射線部に非常に貢献しており、大学病院としていい方向に向かっていると思います。私も、学会活動、講演、講義、叢書への出筆を重ね彼らに負けないようにやっています。今、先輩として、彼らの研究活動のために環境作りが重要と思っています。 
 私は、現在、放射線部では、副技師長としてCT室を管理しています。また、技師長をサポートし、技師長の指示のもと、医療情報の業務、ネットワーク管理、地域連携の仕事を行っています。これらの業務は、様々な職種との連携がキーになっています。以前の放射線部ではあまり交流がなかった分野の仕事をこなす内、以前に比べ、放射線部を強く意識してくれるようになりました。非常にありがたく思います。
 我が、放射線部が創立40周年を迎えましたが歴史の通過点です。先輩の築かれた流れを大切に、決しておごる事なく放射線部の未来を夢描いて50周年、100周年と続く事を
祈念して、創立40周年記念文とさせていただきます。

『40周年を迎えるにあたり」

現在、私の家族は、嫁(いつ居なくなるか不安?)子ども3人(なかなか言うことを聞かない)、犬(ミニチュアダックス)、クワガタ虫(きっと3ぴき)の大所帯であります。
私が放射線部にお世話になって四半世紀が経ちますが放射線部においても同様に、40名を超える大きな部門となり、中央診療部門の中心的な役割を果たしております。
今後50年、60年と歴史が刻まれる中で放射線部の一員として先輩方が築き上げた良き伝統を後輩たちに伝えるのと同時に、今後の大学病院としての役割を少しでも担えるように努力していきたいと思います。

「私と神大」

短大最終学年の夏休み、学校の先輩を頼ってむりやり2日間だけ病院見学に来させていただきました。その際、先輩をはじめとするスタッフの皆さんが驚くほどやさしく、親切に説明をしてもらい、お茶にお菓子にと歓待していただき、先輩には夕食・神戸観光にと…。2日間の見学の終わりには「絶対ここに就職したい!」という気になっていました。そして運良く採用され、現在に至ります。就職後の待遇については…(黙)

「つぶやき」

2001年に人事交流で神戸に来て現在にいたる。

「つぶやき」

「怒る」の読みは「おこる」と「いかる」があり、意味は「おこる」は腹をたてる。いかる。しかる。とあり、「いかる」は腹をたてる。おこる。憤慨する。激しく動く。荒れ狂う。とある。しかし「叱る」(しかる)は、とがめ戒める。とある。教えさとすのである。後輩たちには、「怒ら」ないで「叱る」ようにしたいものだ。

「思い出、そしてこれから。」

今から二十数年前、救急部新設にともなう技師増員のため、新卒の私は雇ってもらえることになった。当時は、あまり家にも帰らずしょっちゅう夜勤をしていたように思う。今は、放射線治療にどっぷり浸かっている毎日だ。20年後、私は60才を過ぎている。日本は高齢化社会のまっただ中。辺りは年寄りばっかりであろう。年寄りも、より年寄りを支える世の中で、おそらくまだ働いているのかな?

「もう・・・」

ちょうど20年前はここ放射線部に就職したピチピチの1年生でした。
  あれからもう20年が経ち、今では上から数えて10番目。
  もう、おっさんになりました。
  あと約20年間、おっさんパワーで踏ん張ります。

『気がつけば..」

私は、平成7年の阪神淡路大震災直後に就職しました。
震災の影響で、就職試験の辞退者は相次ぎ、競争率は1.5倍。
運を味方につけ、採用試験に合格しました。
あれから17年、長かったような短かったような。
そして気がつけば、私も生誕四十周年。
神戸大学病院放射線部とは、同い年だったんですね。

 
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