40周年に寄せて

放射線技師同門会より

(順不同/敬称略)

相江康弘

放射線部40周年記念おめでとう!

放射線部40周年 誠におめでとう御座います
この度 私にまでメッセージのご依頼があり、驚きと嬉しさが錯綜致しております。
在籍が数年と短期間であったにもかかわらず、また国立移管後間もなく退官し、既に43〜4年にもなりますが、いまだ仲間の一員にとどめていただき誠に有難く光栄に存じます。
 当時私が入門致しましたのは、大学が県立から国立に移管される直前のことにて、確か本館52号室での凄まじいばかりの一般撮影や中央病棟一階での特殊撮影、手動フィルムチェンジャーによる脳血管撮影、梯子状手動チェンジャーによるACG等、その後 当時では画期的な自動連続撮影装置(大角フィルム2〜30枚セット)導入によるも、調子がつかめず良くフィルムが詰まり急遽暗室にして、ドライバー片手にカンを頼りに解体し、クシャクシャのフィルムを一枚でも多く救い出すべく努力をしたものでした。
思い起こせば全てが懐かしい思い出となっておりますが、今やこの様なお話は有り得ない事柄、お恥ずかしい限りです・・・。
 私は同門会の仲間内でも少々変わり者の一人かと思いますが、同じ医療関係従事者であることには間違いありません。国立病院を去るに当たり放射線技師から柔道整復師として、若さ故の決断でありましたが接骨院を開設致しました。以来多くの方々に支えられ、今日まで40数年大過なく地域住民の健康保持増進に微力乍らも努力し、ケナゲナ愛・親しまれる接骨院にと頑張って参りました。趣味としてゴルフやハイキング(カメラ片手に・・・)そして盆栽等々を楽しみ乍ら元気に居ります。
 この間 過ぎし年月は正に「光陰矢のごとし」の感が致します。当時ご一緒にお仕事をさせて戴いた先生方はお元気でいらっしゃいますでしょうか?この機会にご無沙汰のお詫びと、元気で居りますことをお伝えし大学放射線部の皆様方の今後ますますの御隆盛とご多幸をお祈りし申し上げお祝いのことばと致します。

秋山佳見(旧姓:釣田)

このたびは、めでたく40周年を迎えられましたことを、心からお祝い申し上げます。
在職中でありました11年前を振り返ると、当時新人だった私は、仕事の厳しさ、責任の重さを痛感する日々の中、いたらぬ点ばかりで、大変ご迷惑をおかけしてしまいました。
しかし、そんな私に熱心にご指導をして下さった皆様方に、改めて感謝しております。
今年、40周年という節目を迎え、先輩の皆様方が築き上げてこられた歴史の重さを感じます。
今までのご功績に敬意を表し、今後の発展とさらなるご活躍をお祈りいたします。

小川 昭三

定年退官直後、北山元技師長が逝去されたことで自分自身も早世するだろうことを以前から思っていたことを甦えらせて、55歳で早期退官を決断して12年が過ぎました。現在67歳で、7月になると68になります。創造主なる神の配剤かとも思える生活をさせて頂き感謝に絶えません。
  思えば大学病院時代は現在と同様、良き時代でした。多くの先輩、同僚、友人たちに恵まれました。時に仕事が厳しいときもありましたが今は素晴らしい思い出になっています。ただ一つ、悔やまれることは後輩たちに手本となることを示すことが殆ど出来なかったことでこれはこれで多分反面教師として役立たせて頂いたのではないかと自ら慰めています。
  最近(昨11年12月)からギターを習い始めました。洋楽はからっけし駄目でしたが、中古のギターを手にしてその音色の魅力に取り憑かれ毎日練習しています。じゃかじゃか弾くのは性に合わないので、静かに弾くアルペジオで悦に入っています。難しいですが、4,5曲なんとかものに出来ました。
  今後とも神戸大学医学部附属病院放射線部が発展をとげ、有数の大学病院放射線部として内外に影響を及ぼすところ更にと祈念しております。

川瀬修三

40周年、放射線部門の皆様方に今後の発展に期待し、「御目出度う(おめでとう)御座います」と華やかに祈念します。

川村 哲朗

40周年おめでとうございます。

私が大学病院でお世話になっていたのが平成11年〜平成13年ですので、もう11年前になります。当時は、まだ学生気分の抜けきらない私に手取り足取り放射線技師のいろはを教えてくださいました。今となっては、あの「邪魔や!どけ!帰れ!」の3拍子そろった先輩方のご指導も懐かしく思います。今後とも神戸大学医学部付属病院放射線部の益々のご発展をお祈り致します。

楠本利治

今、検診車に乗って、兵庫県内の住民や事業所の定期健診の胃部、胸部撮影業務に従事しています。僕がいた時代の大学病院と違って、毎日が慌ただしい撮影と検診チームのリーダをこなしている為、今は充実した満足感ではなく疲労感でいっぱいです。
転進した始めは大学病院と違った胃部撮影を自分が出来るなと思っている時は、毎日が楽しくて仕方なかったが、今は胃撮影を日々60人撮っているため、少し疲れています。
今振り返ると大学病院は、いろんな勉強に適したいろんな機材が豊富で恵まれた環境でした。しかし、いま居るところは、X線画像を少し良くしようと思っても機材と協力が得にくい状態です。少しいらいら気味です。
大学で勤務している放射線技師は、他の施設と比べると非常に幸せよ。

倉本篤至

放射線部門創設40周年、心よりお喜び申し上げます。
私は短大を卒業してまもなく、平成14年4月にこの神戸大学医学部附属病院放射線部に技術補佐員(非常勤)として就職しました。当時の思い出としては、とにかく出来が悪く、日々技師長や主任の皆様方、先輩方にご迷惑をかけていたというのが印象にあります。ただ、そのような自分を3年間もあきらめず面倒を見て頂いたことに今でも深く感謝しています。今後も神戸大学医学部附属病院の益々のご発展と、放射線部のご活躍に期待しております。

古東正宜

放射線部での“回想”

放射線部設置40周年、おめでとうございます。私は昭和55年に就職し、暫くして中央診療棟の移設工事が始まりました。移設時は、非常に狭い撮影室に追いやられました。今、思い起こせば空調もあまり効かない撮影室内で、汗だくになり首にタオルを巻いて位置づけを行っていました。また、泊りでの忘年会ではケガ人が出る位まで騒ぎ、清月荘での同門会(忘年麻雀)では体力のある諸先輩方には大変可愛がってもらい楽しいひと時を過ごしました。今年度からは、同門会OBの一員として放射線部門が益々発展される事を祈願しています。

佐々木亜由美

祝40周年、益々の発展を祈念します。
皆様とともに、会の発展に貢献していきたいと思います。

簀戸良祐

このたびは、神戸大学医学部附属病院放射線部の設置40周年、ならびにofficial web siteの開設、まことにおめでとうございます。
私は、生まれ故郷でもあります大分県佐伯市というところで、田舎暮らしを満喫しておりますが、復興を遂げた神戸の街は、以前にも増してより一層華やかなことと存じます。
今後とも放射線部の皆様のご活躍を、心よりお祈り申し上げます。

高橋龍児

40年はまだまだ若い・今後の発展を期待します。

放射線部門40周年おめでとうございます。
自分流の生きざまの区切りで言うなら、やっとseason-2をクリアした段階です。
私は人生を20年で1seasonと勘定し、その1区間を前編と後編とにわけています。
 したがって、現在自分はseason-4の後編を演じています。
神戸大学病院を辞して既に30年が過ぎているにも係わらず、今回の御案内を頂き大変有り難う御座居ます。
 現在の放射線部門のご活躍・技師構成・病院内での相対的立場等は全く知りませんが、時折参加させていただきました「同門会」に於いて少し情報を得る程度です。
この度、古東氏が神戸赤十字病院の技師長として栄転された事にご本人及び組織としての放射線部門にたいしてお祝い申し上げます。
今後も優秀な人材の育成を計られ県下の基幹病院の責任者として送り出される事を期待します(出ていく本人は大変ですが)
 ここで提言です。OBも集まる「同門会」は今後も継続されると思っていますが、この場で「同門会今年の出来事(例)」としたメモを配布して戴けたらと思います。
久し振りにOBが顔を合わせるだけでも意義有る会ですが、最近の技師室の事も知りたく思いますのでご検討下さい。
今、小生は「野菜づくり」と「陶芸」と「へら鮒釣り」とある習い事をやっています。それぞれの行動に於いて「仲間や師匠」とのお付き合いがあります。
それぞれの場で「会話」を楽しんでおり、又の機会に皆さんと「会話」が出来る事を楽しみにしています。

田濃孝司

神戸大学医学部附属病院放射線部開設40周年おめでとうございます。今から39年前 2年6ヶ月ほど在職いたしました。仕事をしたと言うより勉強させて頂いたと言うのが、正直なところです。当時の上司で今もご健在の垣鍔先生 福川先生の ご指導のお陰です。一番記憶に残っているのは、阿曽先生と忘年会の幹事をさせて頂き、私の地元、雄琴温泉で忘年会を開催しました。翌日は、京都南禅寺「順正」で湯豆腐と豪華版です。賛否両論あったようですが、過ぎてしまえば、楽しい思い出です。又 近畿部会で滋賀県に来られて、どこかに連れて行けと言われ、堅田の田んぼ道でマージャンをしたように記憶しています。
2年前に 近畿医療技術専門学校放射線科学友会の会長さんとして創立55周年の記念大会を開催したところ福川先生が駆けつけて下さり、40年経った今も気に留めて戴いていることに改めて感謝したところです。

中島義明

人生◎儲けの40年かな!

私が神大病院の門を叩いたのは昭葉45年の9月でした。当時は放射線科所属の中央部門で正式に中央組織として発足したのが昭和47年でしたので、その時から40年が経過し年月の過ぎる速さと永さを痛感します。
以前の建物はすべて建て替わり、当時の職員は退職、偲ぶのは頭の中の記憶だけになりました。
就職当初に自現機はありましたが暗室作業で、忙しい日には昼休憩まで籠もったままでフイルムの詰め替えと現像だけで1日が終わることが多々ありました。単純撮影の業務量も多く、頭部撮影では午前中で100枚以上、断層では1人で30枚40枚の撮影は当たり前で台車に多くのカセッテを乗せて暗室と撮影室間を走り廻っていたことを思い出します。また、撮影室に空調設備がなく夏は窓を開けっぱなしで女性の撮影でもカーテンはなく、今では考えらない状況で撮影しておりました。
昭和51年?だったと記憶していますが、兵庫県の第1号機である頭部専用CT装置「ERI1000(翌年1010に改造)」(英国エリザベス女王来日により自賠責保険が購入し寄贈)が導入されました。希望がかなって初代の配属となり、のちの技師人生の転機となったように思います。
昭和57年、県立姫路循環器病センターのオープン2年目に高橋先輩の声かけにより縁あって兵庫県へ転職しましたが、神大病院の経験がなければ今の人生は違ったよう(もっと立派に、それとも惨めに!)に思います。
その後、こども病院、尼崎病院、がんセンターと転勤を繰り返し平成21年に姫路循環器を最後に定年退職しました。
退職後は実家(朝来市山東町)に戻り忙しくしております。さいわいにも検診の仕事をいただき朝早くから検診車で県内の東西南北を走りまわっております。
合間には農業初心者としてお米・野菜作りに悪戦苦闘し、肉以外は自給自足の生活です。
昨年に一時体調を壊しましたが今では復活し、今年の第1回神戸マラソンを無事完走しました。自慢できるタイムではありませんが、その写真が完走メダルとタオルです。
この40年を振り返り、反省すべき点はその時々によりありますが後悔したことは特に記憶になく(忘れやすい得な性格か?)“人生◎儲けの40年かな!”とこの原稿を書きながら感じています。
都会を離れ刺激の少ない田舎生活ですが、同門会のWeb Siteからメンバーの近況等を楽しみに拝見させていただきます。運営・維持には大変な労力を必要としますが、現役の諸兄にはぜひ充実した内容で楽しませていただけることを期待しております。

西原隆生

放射線部 40周年おめでとうございます。私が在籍した年がちょうど20周年記念誌が発行された年でした。在籍したのは8カ月でしたが、非常に濃い時間を過ごさせていただきました。若かった私は、当直ばっかりやってた気がします。20年の月日は、すっかり私をおっさんにしてしまいました。
 私の近況ですが、国立循環器病センターへ転職し、整形の撮影など全然やってなかったのですが、今年の4月に刀根山病院に転勤になり、久しぶりに長尺のカセッテを抱え撮影しています。ブランクが長かったのですが、神大の先輩方に鍛えられていたおかげで、何とかやっていけてます。
 我々をとりまく環境は、激変してしまいましたが、まさか独立行政法人になるとは………時代に負けないようがんばっていきましょう。

福川孝

私は神大病院に育てられた技師です

昭和42年に私達の勤務する病院が、兵庫県からの国に移管され、神戸大学医学部附属病院となり、同47年に正式に「中央放射線部」が発足しました。
 その年から40年が過ぎようとしています。
 私が、兵庫県立神戸医科大学附属病院に採用されたのは昭和39年、そして、昭和58年迄神戸大学医学部附属病院に在職していました。その間に診療放射線技師として、又、1人の人間として色々と育てて頂いたことを改めて思い返しています。
 在職中には一般撮影だけでなく、脈管造影室、RI検査室などでも仕事をさせて頂き、技師としての業務を通じて、技師の先輩、仲間だけでなく、各診療科の医師、看護師さん等からも医療人としての在り方を学ばせて頂きました。
 特に大学病院の職員として、いくつかの研究活動にも誘って頂き、人体だけでなく、他の動物も含めた解剖所見、生理、病理現象と放射線での投影像や、RIをトレーサとして使い、いかに表現するか?と云ったような事まで取り組む事ができたことを幸せだったと思っています。更に、いくつかの学会誌の研究発表論文の共同研究者、或は協力者として私の名前を加えて頂いた事も有難い事だったと思っています。こうした病院内のおつきあいからか、三木市民病院に移ってからも、神戸大学出身の各科の医師に何かと相談に乗って頂けたこと、定年退職後に時々検診車に乗って県立病院などの職員検診に行った時などでも、廊下の向うから「福川さん」と声を掛けて頂いたことも有りました。
 私が診療X線技師免許取得のための勉強をしていた頃(1950年代)に「人類の医療の歴史は数千年経ているが、放射線の医療への利用は1895年のX線の発見以降の新しい分野だ。」と云われた事を強く覚えています。
 現在に至る科学の進歩は著しく、医療への取込みも又、激しい勢いで行われ実用化されて来ました。私はMRの研修の時には「頭の中がスピンして来た!」と悲鳴を上げたのを思い出しました。それからすでに、30年、進歩の加速度はさらに強くなっていると思いますし、さらに未知の分野にも立ち向かって行かねばならない予感を持っています。
 常に医療の先端を開拓する大学附属病院の放射線技師集団の宿命として、これからも色々な事柄が出て来るでしょうが、皆様の力を結集し、克服、前進される事を確信しています。
 私もかつては、神戸大学の放射線技師として勤務させて頂いた事を誇りと、満足感を持って、今日を迎えています。
 設立40周年を迎え、皆様の益々の御発展と御健康を願っています。

福田博治

放射線部設置40周年おめでとうございます。

私は医療技術部の前身である中央放射線部にも属さないアナログ時代の退職者の最年少者?の一人です。

お願いしたい事があります。
骨撮影のポジショニングですが、いまだに多くの施設は形態情報の描出と経験的技術に依存しているのが一般的であり、教科書や副教材も何十年も前の改訂版を使用しています。
多くのスポーツ選手や一般の方の関節撮影をしている神大放射線部では関節構造を機能解剖学や生体力学、運動学などの視点から機能学的な撮影を日常されていると思っています。
それらをまとめて、神戸大学医学部附属病院 放射線部発行の教科書や副教材を作成し発行してください。

松永 登

学会のレベルは編集委員会が決定するんだ!

表題の言葉は、私が技術学会の編集委員を拝任していた時に聞いた言葉です。中放に在勤中に、神戸大学のお蔭でこうしたアカデミックな世界に足を入れることが出来ました。本当は学会のレベルは学会員が提出する論文の質で価値が決まります。しかし表題の理念に支えられ、日本放射線技術学会の編集委員として論文の審査と査読に意欲的な活動をする事が出来ました。
 
昭和47年、阪大医短を卒業と同時に放射線科の開業医の元へ就職しました。
臨床が好きだった私は、放射線科医とずっと一緒におられる事を職場の第一選択肢としました。しかし次の年の学会で、去年まで机を並べていた同級生が、全く知らない内容で学会発表をしていました。こりゃあイカン!そう感じ打ちのめされた私は卒後3年目に中放の一員に加えて頂きました。

トピックスは昭和50年でした。脳外科の先生から、海外でコンピュータを使った頭部の断層写真が撮れるらしい!との情報が入り脳外科の先生と犬の断層実験を開始しました。ヨードのk吸収端を利用したりと苦心したのですが、結果アナログ法のみで論文にある画像は得られませんでした。

次のステップは53年?中放に設置されたTCT-60Aです。兵庫県下で3台目のbody-CTに初めての担当者となった私は、数多くの体験をさせて頂きました。
scan timeは1slice 9.6秒 それでも数分のEMI-1010より相当に早い!
160×160matrix画像の演算時間は1sliceで40秒 午前中にscanした画像の計算が終わるのは昼休みの後!と言ったとんでもない環境でした。
ハードディスクの容量は何と40Mbyteで、画像データの保管はオープンリールのmagnetic tape 2400feetでしたからね。

この頃には中島先輩や今井君らの同胞と共に、福岡学会で初めて理論が示されたDSAにも挑戦し、貧粗な撮影室で原著の抄読も続けました。時にはDECのコンピュータも駆使し皆と過ごす時間は、そりゃあ楽しい時間でした。
医局の先生方とは,当時最先端であった肺がんの動注CTの臨床研究を始め、膵がんをテーマとした動物実験など多くの体験もさせて頂きました。これが大学に籍を置く者の強みなのでしょう。時には佐古先生の教えも拝聴しながら、夜遅くまで実にアカデミックな時間でした。
やがて高エネルギー棟が完成し、新しいリニアックにも従事させて頂きました。
治療経験が薄く加速器の理論にも浅い僕は、阪大病院へ通い「治療屋」として基礎を築きました。今城先生を始め治療班の先生方とは仲良くして頂きましたが、過酸化脂質だったかのテーマではマウスを相手にした時も有りました。
こうした体験から科学の素晴らしさを教わる事が出来て、同時に今の自分が形成された事に感謝したいと思います。
 
この度40周年を迎えられた放射線部の歴史は、歴代の数多くの方々の尽力によるものであり、そうした一端に参加できた過去が何とも晴れがましくもあります。
科学と技術は絶え間なく進歩しますが、どうぞ後世の方々が一層の医学の発展に寄与されます事を念じて、寄稿文と致します。

宮田勝功

おめでとうございます。
今後もよろしくお願いいたします

 
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