歴史・沿革

放射線部の組織の変遷

沿革年表

西暦 和暦 内容
1967 昭和42 6 国立移管に伴い、神戸大学医学部附属病院に改称
中央放射線部設置(院内措置)
1972 昭和47 4 中央放射線部設置(文部省承認)
垣鍔房穂 技師長就任
1975 昭和50 4 第31回日本放射線技術学会総会大会長 垣鍔房穂
1983 昭和58 12 中央診療棟竣工し、一般撮影部門・CT検査部門・血管造影部門設置。
1986 昭和61 12 外来診療棟竣工し、RI検査部門設置。
1988 昭和63 3
4
高エネルギー診療棟竣工し、放射線治療部門設置。
救急部設置に伴い、当直業務開始
1989 平成元 4 北山卓弘 技師長就任
1990 平成2 3 高エネルギー診療棟増設し、MRI検査部門設置。
1992 平成4 4 阿曽一雄 技師長就任
1994 平成6 10 オーダリングシステム開始
1995 平成7 1 阪神・淡路大震災
1996 平成8 4 神澤良明 技師長就任
1999 平成11 10 CT室増設(3室)
2000 平成12 4
9
人事交流開始
RIS(放射線情報管理システム)導入
2001 平成13 4 MRI室増設(GE)
2002 平成14 4 中央放射線部から放射線部に名称変更
2004 平成16 4 国立大学法人へ移行
時間外勤務が当直から夜勤に移行
2005 平成17 3PET室増設
2006 平成18 4MRI室増設(シースルー)
2007 平成19 4
8

9
第63回日本放射線技術学会総会大会長 神澤良明
PACS(医用画像保管通信システム)導入
RIS(放射線情報管理システム)更新
一般撮影以外フィルムレス移行
MRI室増設(日立)
2008 平成20 1

3

4


8
医療技術部設置(院内措置)
骨密度測定室増設
HIS(病院情報管理システム)稼働
ペーパーレス移行完了(救急以外)
川光秀昭 技師長就任 
日勤2人体制開始
フィルムレス移行完了
CT室増設(4室)
2009 平成21 4



5
医療技術部発足
初代医療技術部長 神澤良明
インジェクションナース配置(CT室、MRI室)
CT,MRI,PET予約センター開設
六大学野球大会初参加
2010 平成22 4夜勤2人体制開始
2011 平成23 10PET-CT室増設

沿革年表

放射線部で働く職員

放射線部では、放射線科医師、診療放射線技師、インジェクションナース、事務補佐員、受付職員等の職員が働いています。また、放射線検査や治療に不可欠な看護業務は、救急放射線部の看護師により遂行されています。
この中で、放射線部に所属しているのは、診療放射線技師、インジェクションナース、事務補佐員で、他の職員は他の部(科)に所属しています。放射線部では、他の部(科)とも連携して、様々な検査や治療を行なっています。

下のグラフには1967年(S42年)より、毎年4月の放射線部職員数の年次推移を示します。

放射線部職員数の推移

中央放射線部設置当時(S42.4月)、診療放射線技師20名、事務補佐員1名の総勢21名の職員で動き始めましたが、今や(H23.4月現在)診療放射線技師44名、インジェクションナース3名、事務補佐員5名(以上放射線部総勢52名)、放射線科医師39名、救急放射線部看護師26名、受付事務2名の大所帯になりました

中央放射線部から放射線部への名称変更

当部が中央組織であるということが定着し、また放射線部という名称を用いている大学病院が多かったため、平成14年に「中央放射線部」から「放射線部」に名称を変更しました。

医療技術部発足の経緯

平成14年3月に国立大学附属病院 病院長会議常置委員会から『患者サービスの向上を目指し、効率的かつ適切な職員配置の観点から、医療技術職員を、診療支援部(仮称)の所属として一元的に組織する。』という提言がありました。その後、平成18年11月杉村副病院長から診療支援部設置の働きかけがあり、平成21年4月に医療技術部が発足しました。

阪神淡路大震災

平成7年1月17日、阪神淡路大震災が発生しました。当部も甚大な被害を受け、各大学病院から食料や物品等いろいろなご支援をして頂きました。改めて感謝申し上げます。震災時、放射線部オーダはストップし,従来の伝票対応となりました。しかし、3ヶ月前に伝票からオーダーリングシステムに移行したばかりだったので,院内の誰も(医師~医事課職員)が何の問題もなく,伝票によるオーダに対応できました。震災発生時の状況は、当時当直をしていた今井方丈氏(現滋賀医大病院技師長)が記録を残しています。以下にその一部を抜粋します。

私は、本年は前厄で1月16日、多井畑八幡宮にてお祓いを澄ませた後、病院に向かった。(当直でなければ、本に埋まり、頭には180cm上からスピーカが落ちて、無事ではいられなかったかも知れない。これもお祓いの効果か?)
 1月16日の午後5時から当直に入り、地震の発生した17日の午前5時46分は当直室のベッドで仮眠中であった。ひどい揺さぶりをかけられた状態で目を覚ました。すぐに地震だと直感したが、あれほど強い揺れは初めての経験であり、ものすごく恐ろしかった。幸い当直室は上に物を置いていなかったので、落下物による怪我はなかった。即停電となり、非常灯がともった。
 ともかく家族の事が心配で、真っ先に電話に飛びついたが、外線はつながらなかった。交換手を呼び出して尋ねると、外線は全面的に不通になってしまったとの事。テレホンカードを持ち、公衆電話に急いだが、停電でテレホンカードが使えない。10円玉は使えると聞き、小銭を取りに行って再度電話へ急いだ。(余談になるが、この時初めて停電になるとテレホンカードが使えないという事実を知った。カードの使用には100ボルトの電源が必要なのだ。)結局自宅にはつながらず、後で再度電話してみる事にした。しかし、子供たちの寝ている頭上には、スピー力など重たいものがあり、もしかすると大怪我でもしていないか、ひょっとして死んではいないだろうかと、不安がつのる一方だった。
 その後、すぐに部内を回って被害状況を確認し、必要最小限の応急処置(自動現像機に配管された水道管が破裂して周囲が水浸しになっていたので元栓を止めた。また幸い部内ではガスもれは無いことを確認し、元栓の確認もした。)を済ませ、救急部に現在中央放射線部は検査の対応が不可能である事を伝えた。次いで公衆電話にて技師長に連絡をとった。これが6時15分、地震発生から約30分後であった。
 技師長宅は大阪であったが、幸い電話は通じた。技師長へ現状報告及び全員にできるだけ早く出勤するよう要請した。この要請は部内であらかじめ作成してあった連絡網にて伝えられていったが、途中で通話困難となり、6時30分頃にはほとんど不通状態になったようで、連絡網の最後まで行かなかった所もあった。
 7時頃、再度自宅に電話したがやはり不通で、近所の電話番号を調べて数軒かけ、やっと通じたお宅の方に頼んで家族の安否を見てきてもらったところ、無事が確認でき、安堵した。さらに、非常呼集の際、神澤副技師長に通勤途中に自宅へ立ち寄るよう依頼した結果も8時半には聞く事ができた。後で聞いたNTTの説明では、交換機は順次復旧させていたそうだが、1軒1軒つないでいくため、私の家は不通でも隣の家は通じるという状況が一過的に起こるという事だった。(わが家の電話が復旧したのはその日の16時頃であった。)
 連絡をした後は、一人でできる範囲の撮影室等の復旧にあたり、そうこうする内に徐々に仲間が駆けつけてくれた。電源の供給された9時頃まで復旧作業は続き、その後は撮影業務に従事した。
 話は変わるが、院内にはある程度の防災物品が各部署に配備されており、中央放射線部にも専用ロッカーにヘルメット10個、防災服10着、長靴10足、懐中電灯、軍手などが用意されていた。地震発生直後、足の踏み場もない程物が散乱している中、私一人で巡回中に大きな余震が来た。誰も知らない内に一人で死ぬのはいやだと思い、閉じ込められないよう撮影室の扉を全部開き、すぐにヘルメットを被った。7時30分に最初に駆けつけた同僚は、私のこの格好を見てかなり笑っていたが、本人にとってみれば必死の思いなのであった。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/10-103/09hokoku/08.htmより
 
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