祝辞

兵庫医大 放射線科・放射線医療センター

廣田 省三

中放部の思い出:1995-2000年

 中放部設置40周年ということでおめでとうございます。かつて副部長をしていたことから、何か思い出をとの依頼がありました。奇しくも、私が所属している兵庫医大も本年が創立40周年ということで、やはり同じ年齢を重ねています。

 さて、私が、神戸大の放射線科から所属が中放部に換わったのは、平成7年7月で、平成12年8月まで在籍しました。佐古先生の医療情報部移動に伴っての人事でした。阪神大震災の年で、小生の自宅も全壊しましたが、幸いにも怪我はなく、芦屋に家を借りて通っていました。神戸はぼろぼろでした。つぶれた家と崩れた土壁が道路を塞ぎ、通勤は車で2時間もかかりました。市民の中にも温度差があり、肉親を失った人、悲惨な地獄を味わった人、ほとんど被害のなかった人、それぞれに受け止め方は違っていました。が、激烈な揺れのなか命が助かった人は、その当時、どんな辛苦も苦にはなりませんでした。
 中放部の被害は、比較的軽微で、水回りの復旧が終わると、診療に支障をきたさずに動いていました。
 当時は、技師長が阿曽氏で、神澤氏は主任技師でした。高エネ棟との通路に沿って、副部長室と技師長室が長屋のように並んでいました。何か問題があると、技師長が私の部屋に訪ねてきては、むつかしい顔をしながら私をみつめ、決まって“先生、どないしょ。”という台詞から始まったのを覚えています。

 この時代で、忘れられないのは阿曽技師長が退官されることになり、次の技師長を誰にするかで、若かった神澤氏を抜擢するよう阿曽氏と提案したことです。その神澤氏も退官されているのですから、感慨ひとしおです。神澤氏の部屋で、よくお茶を入れていただきご馳走になりました。なかなか和の仕草が似合う人で、お花の師匠であることは皆さんご存じの通りです。また、神澤氏が技師長になってから、CTを増設するのに当時CT室に隣接して在った技師室を移転してその跡にCT室を作ったことも思い出されます。技師集団からの反対を心配していましたが、杞憂に終わりました。アンギオ室で当時最新のIVR-CTを導入したのも忘れられません。小生は、ほとんどこの機械を使わずに移籍したことが、無念のひとつです。アンギオ室には、岸さん、黒木さん、古東さん、楠本さんなど個性的な面々が顔を揃えていました。今井氏も滋賀医大に栄転されましたが、夜になると技師室周辺で何やら研究の仕事をされていたのを思い出します。

 副部長室は、医局と少し距離があり、ある意味自由にさせて頂きました。小生の主だった学問的仕事は、この部屋でやり、離れの勉強部屋よろしく、受験生のように遅くまで論文を書いていたことを覚えています。BRTOの分類もこの部屋で考えて、アンギオミーティングの際に、松本真一先生に“どう?この分類は”と意見を求めたことを覚えています。忙しくしていて、かまってもらえませんでしたが。
 私が中放に居た時代は、まだPACSが導入されていない時代で、せからしさはなく落ち着いた時代でした。CTも多列になったばかりで、MRIもIVRも治療も伸びしろが一杯あった時代で、一体どこまで進歩するのかと、うきうきとした気分で時代を見つめていました。

 現代の中央放射線部は、X線検査、CT、MR、核医学・PETの画像情報の発信現場であることに変わりはないものの、CT、MRなど、検査件数は膨大となっています。また、放射線治療もIMRTなどの機器の進歩とがん対策基本法などの啓蒙により患者数が増加し、IVRでも循環器、脳神経領域、大血管領域での進歩により患者数は増え、多忙を極めています。まさに、病院を支える柱となっており、当分、この重要性は変わりようがありません。組織が大きくなり、専門性がさらに深まったことから、小生のいる兵庫医大では、放射線医療センターと名前をかえ、4つの部に分け、それぞれに部長をおき専門性を高めています。

 これからも、質の高い診療を目指し、日々努力を重ね、時代の進歩を積極的に取り入れ、地域の基幹病院として今後も信頼され続ける我らが神大中放部で在ってほしいと祈念しています。

 
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