祝辞

垣鍔 房穂

放射線部門40周年 おめでとう 放射線部設置前の思い出

 昭和42年兵庫県立神戸医科大学附属病院が国立神戸大学医学部附属病院となりました。
 そして、この県立から国立への移管は放射線技師にとって大きな変化をもたらしました。
 移管前後の状況については20周年記念誌に詳しく書かれていましたので、私は移管前の技師の環境や雰囲気について、思い出すままに書いてみました。

 県立病院時代は、X線技師全員が放射線科に所属していました。昭和29年から30年の1年間は増野主任技師が居られ、私も先生に色々とご指導頂きましたが、増野主任の退職後ははっきりとした職制が無く、松本先生以下年功序列で放射線科医局の管理下に業務が遂行されていました。
 この時代、技師が集まって意見を出し合い物事を決めるという様なことは殆ど無く、また放射線機器の選択、設置等は事務部と放射線科医の間で決定され、技師に意見を求めることなど、全くありません。自分達の使用する機器が知らない間に納入設置される事も稀ではありませんでした。
 当時、技師は放射線科医の影に隠れ、事務職員や放射線科医側から見て専門職としての評価が低く、軽視されていた結果であろうと思います。

 ある時、楢林教授から、「大学病院は、診療、教育、研究の場であり、大学病院に勤める以上、技師も撮影終了でその日が終わりでは十分とは言えない。」と言われたことがあります。
 その頃の技師は、その日の与えられた業務を済ませば、今日はこれで終わり、という考えの人が多く、午後4時前後になると何時の間にか一人、二人と姿を消していました。
 一方、放射線科の医局では夜の10時、11時になっても明かりが点り、何人かの先生方が机に向かっているのが実状でした。
 ところが、昭和30年代中頃から、大型X線装置やRI機器の進歩、放射線診療の多様化に伴って、技師も自ずと勉強しなくては務まらない時代になりました。
 当時は、技師には研究費や出張旅費の予算は無く、また実験用の器具、機材も勿論有りません、濃度計なども隣のがんセンターに行って使わせてもらうという状況でした。

 この様な不満足な環境の中で、若い技師達がCLARKの撮影法の勉強会を始め、また簡単な実験等にも取り組む様になり、徐々にではありますが医療人としての自覚を持って前向きに行動する様になりました。
 一方、放射線科の先生方との接触も次第に密になり、技師に対する評価も徐々に良くなって環境も改善され、放射線部への移行が順調に行われました。

 以上、簡単にですが思い出す儘に当時の技師の有り様について書かせていただきました。
 終わりに、放射線部40周年を祝うとともに、これからも益々の発展を祈ります。

 
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